ロッジわがや

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カテゴリー「東日本大震災ボランティア」の106件の記事

2019年11月20日 (水)

長野でリンゴ園の泥出しボランティア

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11月18日(月)19日(火)と、長野市穂保地区に行ってきた。台風19号による豪雨での千曲川の堤防決壊から一ヶ月、現地はどうなっているだろう。富山を6時に出発。
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軽トラは、10月下旬に行った際にはゴミ出しで役に立った。この日はスコップやチェーンソーなどを積み込んだ。
今回は、「ピースフルハウスはぐれ雲」のスタッフ2名寮生7名、「かど屋」常連さんの高畑さんと私の総勢11名で乗り込んだ。
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9時半に到着。まず受付をして、諸注意を聞く。
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そしてリンゴ園へ。リンゴの木の下に流れた土は粘土質で、根っこが呼吸出来ない。それを取り除く、肉体的に大変な作業。

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2019年10月23日 (水)

長野市穂保地区でボランティア

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今後の営業予定 10月23(水)~25(金)通常営業16:00~22:00、26(土)15:00~19:00、27(日)富山マラソン出場のため休み、28(月)定休日、29(火)~通常営業です。
10月21日(月)から二日間、台風19号による甚大な被害を受けた長野市穂保地区へ、ボランティアに行ってきた。東日本大震災ボランティアの時にお世話になったのはOPEN JAPANという団体。その吉村誠司さんに連絡、彼が活動している場所へ。同行は、ブログとFBでの呼びかけに応えてくれたYちゃん。朝5時に富山を出て8時半に穂保に到着した。目にしたのは、テレビや新聞報道のとおりの惨状。
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ゴミもそこかしこにうず高く積まれている。
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まずは、活動拠点として入っているSさん宅のゴミ出し。私は軽トラで行ったので、それが役に立った。3回ほど、河川敷のゴミ置き場に運んだ。

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2019年3月11日 (月)

あの日から8年・・・

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3月12日(火)はお休みさせていただきます。また、日曜日の営業を、21時までに変更させていただきました(今までは22時まで)。
東日本大震災が起きた2011年3月11日午後2時46分。私は粟巣野でテレビをつけて確定申告の作業をしていた。ワイドショーの東京のスタジオが揺れ、3分後くらいにロッジの建物も大きく揺れた。その後はテレビを観て、途中で怖くなったりもしたものだ。

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2日後くらいに当時中3だった息子と夕食を食べに行った時に、「ボランティアに行こうと思う」と言うと、「僕も行きたい」と返事がきた。そんな気持ちが嬉しかった。

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私は22日頃に石巻入りしたのだが、とても活動するのにいい団体にお世話になって、精力的に動けた(今は「OPEN JAPAN」という団体)。また、息子とその友達も27日頃に合流出来た。人との触れ合いの中で、たくさん感じるものがあっただろう。
長い人生の方向付けになってくれただろうか。Dsc00595

これは4月の画像。
とはいえ、人は流されやすい。日々、楽しいこともあるし大変なこともある。「あの日を忘れない」と思っていても、記憶は薄らいでいくものだ。それでも、時には思い出し、色々考えてみたいものだ。

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大勢で中学校の泥出しをしたあと、校長先生が言っていた。「人のチカラって凄い。今度は小さくとも人を助けることがしたい」と。助け合う、今の自分にはなかなか出来ないが、その気持ちを忘れないようにしようと思う。

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「かど屋」は、16時から22時まで(金・土は23時まで、日曜は21時まで)営業。店内禁煙、カウンター9席のみの小さいお店です。定休日は毎週月曜日。皆様のご来店、お待ちしております。

2016年3月11日 (金)

あれから5年

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今日は3月11日。東日本大震災があった2011年から5年。10日ほど経って、石巻に行った。
テレビを観ていて、「こんな大きな災害なら、自分の小さい力も少しは役に立てるのではないだろうか」と思ったからだ。
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避難所となっている小学校を訪ねて。
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物資提供。ここの地区の人たちとは、今も少しだけ交流がある。
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4月に再訪。富山の鱒の寿司を提供してもらったので、200箱配った。笑顔が嬉しい。
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石巻に行っている間は、真剣に動き回った。
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みんな、普通の暮らしをしているのだろうか。復興の遅れをどう感じているのだろうか。
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5月。自衛隊の活動ぶりには感動と感謝の連続だった。
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東京オリンピックは復興の妨げになっていないか、原発再稼働は間違いではないのか、そんなことを考えずにはいられない。

2014年3月22日 (土)

石巻を訪ねた4日間・最終日

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最終日の20日(木)、一晩泊めてもらった「OPEN JAPAN」の前で。吉村さんには、今回のボランティアのセッティングをしてもらいました。ありがとうございました。
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16歳と18歳の若者たちにとって得難い体験となった、と信じている。多くを語らずとも、心に染み入るものがあったはずだ。
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9時出航の網地島ラインで、「猫島」として有名な田代島へ。猫神社を参拝。
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雨のせいか、あまりネコを見かけなかった。
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私は「ネコ派」ではなく「チョビ派」なので、あまり興味なし。
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船の便の都合で5時間ほど滞在して、15時頃石巻に戻り、帰路へ。富山に戻ったのは、深夜1時だった。
今回は、私にとっては気になっている地域や人たちを再訪する旅だった。息子や友人、娘には、どうだったろうか。ただの旅行とは違う、中身の濃い旅であったことは確かだろう。
またいつか、行きたいと思います。

石巻を訪ねた4日間・3日目

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19日(水)も、朝6時半に佐々木さん宅を出発。我々はボランティアなので遅いが、アルバイトは5時半頃家を出ている。作業所で朝食後、メカブとワカメを収穫してきた船が7時20分頃に到着するのを待ち、メカブ削ぎ開始。
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地元のおばちゃん。避難所に住んでいた時、慰問の人たちが「ふるさと」とか歌ってくれて、その時泣けて泣けて・・と言っておられた。今でも、失われた集落を見た時のことを思い出すと辛い、とも。Dsc_2782
お別れを前に、記念撮影。いい出会い、ありがとうございました。
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我々4名は、昼食のあと小渕浜を離れ、鮎川の静優館横のお風呂で入浴。その後、大原浜に立ち寄った。この集会所は、2011年5月に富山国際大の学生たちとボランティアに来た時、寝泊まりした所。
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そして石巻市街地に戻り、「OPEN JAPAN」のベースで休息後、炊き出しや支援物資の配布を通して親しくなった家を訪ねた。復興が進まない話、立ち退きや都市計画のこと、震災当時、家族が揃うまで4日間かかったことなど、色々と話した。若い3人は、こういう地元の人との会話から、多くを吸収してくれたことと思う。
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夜は、牛タン屋さんで豪華に。その後、吉村誠司さんと合流。魚の美味しいお店で、たくさん話した。息子は、かなり影響を受けたようだった。そして「OPEN JAPAN」のベースに戻り、就寝した。

2014年3月21日 (金)

石巻を訪ねた4日間・2日目

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2日目は、小渕浜でメカブ漁の手伝い。
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水揚げされたメカブを、茎から削ぐ作業。
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アルバイトに交じって、我々も真剣に仕事をした。
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初めて見る、新鮮なメカブ。
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重労働だが、山積みされたメカブが減っていく、結果の見える作業なので楽しかった。
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午後は、塩蔵ワカメの処理。茎と葉っぱの部分に分けていく。これは難しく終わりの見えない、根気のいる作業だった。
夕方、作業を終え、佐々木さんご夫婦や他のアルバイトとの夕食。子供たちも自然と彼らと打ち解けていて、そんな光景を眺めながら、早めに就寝した。

石巻を訪ねた4日間・1日目

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3月17日(月)から4日間、石巻を旅した。一日目、富山を8時に出発、北陸・磐越・東北と高速を乗り継ぎ、三陸自動車道の石巻ICを降りたのは15時過ぎだった。
今回一緒に行ったのは、もうすぐ京都の大学に進学する息子、その友人で同じく地元の大学に進むH君、今度高等専門学校の2年生になる娘の3人。
まず南境地区に行き、かつてボランティアで寝泊まりしていた公民館と、石巻専修大学を見学して、日和山公園へ。ここから、津波で変わってしまった海沿いを眺めた。
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次に、以前炊き出しや支援物資の配布をして親しくなった人を訪ねた。息子は、中3だった3年前に、一緒にこの地区でも活動した。
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津波で多くを失われた地区。女子高校生だろうか、グラウンドでソフトボールをしていた。3年前の同じ場所
そして、二晩お世話になる牡鹿半島の小渕浜集落に向かった。夕食を食べてから行くと行っていたが、牡鹿半島に夜開いている食堂はなかった。コンビニで食糧を買ってから漁師の佐々木さん宅に電話をしたが、結局そこの夕食を頂いた。

2014年3月11日 (火)

あれから3年・・・

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2011年3月11日午後2時46分。私は確定申告の作業をしながら「ミヤネ屋」を観ていた。中継の東京のスタジオが揺れ、数分後に「わがや」も揺れた。
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すごいことになった。これほどの大惨事、私の小さな力も役に立つかもしれない、と思い、3月・4月・5月・11月と石巻に向かい、ボランティアをしてきた。
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悲惨な状況の中でも、たくさんの笑顔に会うことが出来た。
今はどうなっているんだろう、そんな思いを常に持っているものの、なかなか確かめることが出来ずにいる。
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テレビや新聞の報道は、しきりに「復興は進んでいない」と言っている。もしかして、それが事実なのかもしれない。年に一回ほど、石巻の人と電話で話しているが、「何もあの頃と変わっちゃいないよ」と言っておられる。
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政治とか行政とか、歯がゆいものだ。それはそれとして、自分に出来ることは何か、もう一度考えてみたい。

2011年11月13日 (日)

防寒衣料

Simg_94673月・4月には、全国からの支援物資が、倉庫に集積されて溢れ返っていた。ただ、それを隅々に届ける人が不足していた。だから、しんごが3月に石巻に来る時に防寒衣料を持参するのを、止めさせた。現地には配るべき衣料が溢れていて、しんごのは有効活用されないと思ったからだ。
それを今回持って行ったら、大変喜ばれた。段ボール15箱ほどだが、ほぼ全て、捌けた。春には、やはり欲しい人の全てに行き届いたわけではなかったようだ。今持って行けば、喜んでくれる人も多いはずだ。

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